HISTORY of IDA Watch
“ 街の小さな時計店の革命 ”
≪ 港街“横浜元町”と一緒に歩み、育てられた時計メーカー ≫
“100年”の時計店
井田時計店が創業したのは、明治36年(1903年)のこと。
当時は、時計の修理・販売とともに蓄音機・レコード盤の修理や、貿易が盛んであった横浜港に出入りする外国船に積まれていた時計の修理などを手掛けていました。また、横浜港に入港してきた船の修理をする【ドッグ】にて、航海中、潮風に当たり故障した時計のメンテナンス・修理も行っていました。

この頃、手巻き時計・懐中時計は“時計=財産”と言われるほど貴重で高価な品であったため、購入できる人はごく一部の日本人、または山手の外国人居留地に住む外国人に限られていました。
初期の井田時計店
終戦後、昭和20年9月1日より営業を再開。
しかし終戦直後は、商品を販売するに至らず、元町周辺は進駐軍(米軍)の兵士が多く駐留していたため、兵士が持っている時計の修理などを手掛け、またアメリカ人が多く住んでいたためオイルライターの“Zippo”が出回り、Zippoの石も販売していました。

写真は、戦後、資材が不足する中、建てられた当時の建物です。
この写真の建物は木造2階建てで、現在の建物に替わるまでのおよそ約70年間建設者でもある宮大工によって修理・補修され使い続けられました。
初期のIDA Watch
2階から望む西の橋方面
井田時計店の2階から堀川に架かる『西の橋』を望むもので、終戦直後の時期に撮影されたと言われています。

当時は周囲に2階建ての建物はほとんどなく、この位置から撮られた写真は貴重なものです。
本牧通りには市電が走っており、井田時計店の前を通って山手隧道を抜け、本牧へと繋がっていました。
写真に写る橋の左側には、現在、首都高速道路となって埋め立てられた『派大岡川』が見られます。
2階から望む西の橋方面
昭和半ばの様子
市電の元町駅が店先にあり、多くの買い物客が市電に乗り元町へ来場していました。
そのお客様が雨の日にも傘をささずにすむように店の前は本牧通りに沿って商店街のアーケードが架けられていました。
昭和半ばの様子 1
昭和半ばの様子 2
昭和半ばの様子 3
山手の丘を望む
西の橋付近から山手の丘を望む。
丘の上には旧横浜山手女子学園(現:中央大学付属横浜山手中学校・高等学校)の校舎が見えます。
山手の丘を望む
創業者 “井田 友太郎”
創業者 井田 友太郎は、手先が器用なことで有名で、時計の修理だけではなく、蓄音機やレコード盤の修理なども請け負っていました。
これらの修理には、繊細な作業を要するため、修理するために必要な工具までも自らの手で製作してしまうほどでした。
また、時計のゼンマイを使用し、子供たちにゼンマイ仕掛けの船などの玩具も製作していたそうです。
創業者 井田 友太郎
創業者 井田 友太郎 2
伝統と“今”の融合
IDA Watchではこのような初代 井田 友太郎の精神を大切にし、代々受け継がれてきた修理技術・“時計”がもつ豊かさ、奥深さを多くの方々にお伝えし、楽しんで個々のライフスタイルに取り入れて頂きたいという想いから時計メーカー“IDA Watch”ブランドを立ち上げました。
伝統と”今”の融合